比角校のお宝
「べんがら学校」 石黒 敬七 (1897-1974)103cm×66cm

べんがら学校

 市内四谷生まれ。大正4年講道館に入門、警視庁・拓大で柔道教授を勤める。空気投げなどに独自の技風を開発し同13年に渡仏するなど海外に柔道を紹介、普及に尽力した。絵画、文筆に長じ、戦後NHK「とんち教室」の異色の出演でも知られる。珍しい収集品の数々は「とんちン館」に所蔵されている。明治36年の比角小学校はべんがら色をしていた。小学校が6年制になって初めての卒業生だった作者が昭和39年に思い出と記憶から再現したものである。創立90周年にあたり当時の三宮勉校長の求めに応じ、避暑におとづれていた番神の定宿で描き母校に送った。右手が不自由であったことから左手で描いた。なお、この絵の下がきとみられるえんぴつ絵が人物資料館に所蔵されている。

松平定敬 (1846-1908)180cm×52cm

松平定敬

 幕末維新の大名。美濃高須藩主松平義建の七男。後に桑名藩主松平定猷の養子となる。元治元年京都所司代に就任、兄会津藩主松平容保(京都守護職)と共に京都の治安維持に奔走した。戊辰戦争では各地を転戦後、慶応4年柏崎中浜勝願寺に謹慎している。明治29年日光東照宮宮司。
 柏崎へは3回訪れているといわれている。即ち、明治13年戊辰戦争戦没者慰霊のため勝願寺へ(36歳)、同17年戦没者17回忌のため来柏、同27年、27回忌の来柏である(50才)。その際の揮毫と思われる。

前田黙鳳 (1853-1918)150cm×46cm

前田黙鳳

 兵庫県の生まれ。20歳のとき東京に移住し、日下部鳴滝・巌谷一六・中村悟竹らと交流を深める。名前は圓、字は土方で黙鳳直人と号した。1882年自ら書肆鳳文館を設立。清国に渡り上海・天津・北京へ行き金石学や書法を学ぶ。書学会を創立、明治30年研究誌「書鑑」を刊行。

「達磨」 山田東洋 (1866-1946) 110cm×41.5cm

達磨

 柏崎出身の洋画家。父は鏡古、東洋はその長男。15歳で上京、東京洋画学校に入る。高橋由一に師事。20歳の頃から全国を回り、50歳(大正4年)の頃北海道に定住した。たびたび柏崎に帰省し、油絵具で朱衣の達磨を描くことが得意で大衆に受けた。多くの達磨の絵を描き東洋達磨として有名である。

「コスモス」 宮芳平 (1893-1971) 72.5cm×60cm

コスモス

 堀之内町出身。歌人宮柊二は作者の甥。柏崎中学校卒業後上京(明治44年)太平洋画会研究所、白馬会研究所に学ぶ。大正2年東京美術学校に入学、翌年大正博覧会に入選、同9年第9回文展に初入選。東京美術学校中退。同8年日本美術院洋画部に入り山本鼎・中村彝に師事。同年比角村村長洲崎義郎氏(作者の柏中時代1年先輩)の要請により柏崎に赴き[自由画教育」を指導。同年柏崎町役場・比角小学校で個展開催(10年にも開催)これは柏崎で初めての洋画展であった。柏崎商業学校の嘱託。同9年本校の校章をデザイン。
 この絵は大正3年の作なので東京美術学校在学中のものである。おそらく柏崎の個展に出品したものを洲崎村長が買い求め、後本校へ寄贈されたものと思われる。

「秀苗童子 丸田悌三郎君像」 伊藤ソケン 33cm×24cm

秀苗童子 丸田悌三郎君像

 大正7年元柏崎町長丸田尚一郎氏は、愛児追善のため愛読書90冊を本校に寄贈された。寄贈本は「秀苗文庫」と命名され、本校図書館の発足となった。これは県下最古の学校図書館となった。「秀苗」の文字は愛児の戒名による。現在本校の通知票は「秀苗」であり、子供たちの勉学の象徴となっている。新井石禅は福島県の生まれ、南魚沼郡塩沢町の雲洞庵住職から曹洞宗本山鶴見総持寺貫首に就任した。絵画、書ともに愛読書と一緒に寄贈されたと伝えられている。絵画「秀苗童子」の裏書には「秀苗文庫ゆかりの秀苗童子丸田悌三郎君像伊藤ソケン画伯寄」とあり、あるいは後からの寄贈によるものかもしれない。

「秀苗文庫」 新井石禅師(最乗石禅)(1864-1928)100cm×33.5cm

秀苗文庫

「修道」 鵜澤聡明 (1872-1955) 114cm×45cm

修道

 明治~昭和の弁護士、法学者、政治家。東京帝国大学卒、昭和3年貴族院議員。永く明治大学で教鞭をとり、昭和9年以来数次総長をつとめた。昭和15年大東文化学院総長に就任した。この書は丸田尚一郎氏が柏崎町長当選の祝いとして寄贈された。研修と親睦の象徴。

「わらび平の家」 高橋尚二(1956- ) 130cm×96cm

わらび平の家

 示現会入選作、比角小校区の人。絵に親しみ、当時一水会会員小川博に師事。多くの作品を中央展に出品した。示現会入選5回。この絵は、東京に移転の際母校に寄贈されたものである。長野県を旅したときの印象を描いたものという。