遺跡・史跡

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①逆川道標(さかがわのみちしるべ)

  

  鯨波宿の集落から西へ16丁余のところにある小川逆川(さかがわ)は、青海川との村境であるばかりでなく、刈羽・頸城の郡境でもあり、寛保元年(1741)以降は白川(後には桑名)・高田両藩領の境でもあって、佐渡から江戸への金の輸送に際しては、柏崎陣屋の役人が、柏崎の町役人とともに出向いて、高田藩及び鉢崎村の役人に引き渡すのが例になっていた。
  現在、その場所には「右ハかみがた道」という文字と法師の像を刻んだ道標がある。

(「ふるさと鯨波」より:
鯨波公民館・鯨波地区コミュニティ振興協議会発行)

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②弁慶の硯石(べんけいのすずりいし)

 東の輪地区の北東端海岸に面した崖の上に、角形で中央に四角の穴があいている大きな岩がある。(東西83cm、南北84cmの大きさ、そしてその石の東寄りに20cm×28cm、深さ13cmの四角の穴がある)
 天保年間(1830代)下宿村庄屋の記した「御巡見様御案内帳」には塔野輪に「硯石」がある。海手の方にあり、いわれはない、と簡単に記されている。
  昭和35年以来、この石の調査を心掛けられ、48年から本格的な調査に乗り出された、郷土史家故笹川芳三氏により、この石は寺院の礎石ではなく、天台宗時代の法修山妙行寺の建立した塔の心礎石であるということを、つきとめられた。


(「ふるさと鯨波」より:
鯨波公民館・鯨波地区コミュニティ振興協議会発行)

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③御野立公園(おのだちこうえん)

  慶応4年の戊辰戦争と明治11年の明治天皇北陸ご巡幸のときの御野立所となったことで、鬼穴上の丘陵地(船くぼという)は一躍北陸の名勝地となった。
御野立記念碑
  明治天皇ご巡幸の翌年明治12年2月、大区長・副戸長の主唱により、鯨波村民はここに記念の碑を建てたのが現在ある駐蹕之碑で、題字、撰文、書はいずれもご巡幸の折、天皇の御供をした宮内省の人たちである。


(「ふるさと鯨波」より:
鯨波公民館・鯨波地区コミュニティ振興協議会発行)

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④ナウマンゾウの化石出土地

 昭和39年、当時の鯨波小学校(現鯨波公民館の所在地)付近の国道8号線付替工事現場で、作業中の中村孝蔵氏らによって、大きな動物の臼歯の咬板6枚と切歯(キバ)2個の化石が発見された。
 その後、この化石がナウマンゾウのものであり、当時の地層に埋まった状態のままであることが確認されていたが、昭和61年8月には、16日間にわたり、実人員175人という多数の参加による、本格的な発掘調査が行われた。
 その結果は、「柏崎市鯨波におけるナウマンゾウ化石の発掘・研究報告書」という冊子にまとめられ、平成元年に発行されたが、それには次のようなことが記されている。
 まず、ナウマンゾウのものと思われる化石は、後期工更新世の最終間氷期に形成されたと見られる安田層のⅤ層から左右の上顎第一大臼歯と多数の骨片が、Ⅶ層から左右の切歯、右上顎第一~第三大臼歯、 咬板片3個、頭骨片1個が、それぞれ出土した。そして、安田層Ⅴ層のほうは、年令15歳から18歳くらいの若い成獣のものであり、安田層Ⅶ層のほうは、肩高250cmぐらいの雄の成獣のものと推定された。
 また、熱蛍光法による年代測定が行われた結果、化石の埋まっていた安田Ⅶ層は、ほぼ11万年前のものであるという値が得られた。この値は、それまでに知られていた、放射性炭素による年代測定の値(最も古いものでも3万5千年前よりさかのぼらない)を大きく上回るものであった。
 このときの発掘調査では、多数の昆虫化石、軟体動物化石、大型植物化石、花粉化石、珪藻化石、噛み跡のあるクルミ化石なども出土し、それらによって、当時の地形・気候や動植物の状態もかなり解明されたが、人間生活との関連については、全く資料が得られなかった。
 なお、この発掘調査は、新聞やテレビでも紹介され、期間中の見学者は990人にのぼった。現地見学会と地元報告会は、それぞれ1回ずつ開催され、前者には270人、後者には210人の参加者があった。いずれも、地域内外住民の、この問題に寄せる関心の深さを物語るといえよう。
 現在、発掘の跡地は小公園化されているが、その一角に出土個所を示す標識が立てられ、保存が図られている。JR鯨波駅ホームの名所案内板(ガイドマップ)にも、「ナウマンゾウの地」として紹介されている。

(「ふるさと鯨波」より:
鯨波公民館・鯨波地区コミュニティ振興協議会発行)

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⑤川内遺跡(こうちいせき)

 この遺跡は縄文中期を中心とするものであるが、川内集落の住民が収集・保存している出土品の中には、弥生期のものではないかと思わせるものも含まれており、かなり長い間にわたって、人が住んでいたことをうかがわせる。
 特に、石器の原石や加工片が出土していることは、加工技術をもつ縄文時代人が、この地に定住していたことを推定させ、原石や加工品の中に、当地方では絶対に産出しないといわれる黒曜石があることは、縄文時代人の行動範囲の広さが、私たちの想像以上のものであったことを物語っている。黒曜石は、たぶん長野県産であろうが、そうすると、数百kmのかなたから運ばれてきたことになる。

(「ふるさと鯨波」より:
鯨波公民館・鯨波地区コミュニティ振興協議会発行)

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柏崎市立鯨波小学校(かしわざきしりつくじらなみしょうがっこう)